創立者・初代園長 石黒 つぎ子
窓わくにうつる、朱づきかけた山肌に目を向けながら、遠い事のようでまた生々しい昨日のでき事のような、幼児教育への一すじ道を、思い返している。
私が、幼児教育の道をあるきだしたのは今から二十四、五年前のことである。和歌山に、移り住んで間もなく、私の家を、小児マヒで肢体の自由をうばわれた六才位の男の子を、乳母車にのせた、一婦人が訪れた。
「B・Kの幼児の時間で先生のお話を、親子ふたりで聞かせて、いただいていました。たったひとりの息子が、このような状態です。親として、子どものために、一すじの幸福をでもひろいあげてやりたいのです。幸いに話すことはよくわかりますので、先生のお話をぜひ聞かせてやって下さい」
見ればもちろん手足の自由はきかないし、一つの単語を話すのでも、首から上をつりあげて、あえぎながら、何かを言う。それも母と子の間にしか通じない言葉である。
私は答えた。「みだれ、もつれたお子さんの幸福の一すじでも、たぐりよせるお手伝いができるなら、よろこんで時間をさきましょう」
私は不幸な子どもを、いだきよせるようにしてお話をしてみた。手ごたえがある。冷凍の原野に、春の動く音がする。
このようにして回を重ねるごとに、おかあさんは主人の働く銀行の同僚たちのお子さんや、近隣の子どもたちを、四人つれ、八人つれ、回を重ねるたびに人数はふくれていった。
幸か不幸か、近くに幼稚園がない。借家の前が、広い松原になっていて、根上がりの松はジャングルジムに、じょうぶな松の枝には、ブランコをかける。
所用から帰って来ると、お母さんたちが、話し合わせたものか、かわいいみどり色の籐いすが、子供の数ほどとどいている。
「私のオルガンを役立たせて下さい。」
「私は保母学校をでています。無料で手伝わせて下さい」
みんな母親たちの申し出である。そのうちにだれいうとなく幼稚園、幼稚園と親しまれる。こうして、私は押しだされて、この道を選んだのだった。
その頃、私は若かった。若い血は愛を求める。愛を捧げる。私は私の若い日の血を、ただこの道に注ぎながら歩いて来た。
その名は、「みどり幼稚園」みどりの色が象徴する、希望と勇気と平和を、目ざしながら―
現在の地に、ささやかな園舎をたてたのは、それから二年後になる。借地二百坪、建坪三十坪の、小さな幼稚園であった。戦争が、おいおい威をふるいはじめたころの事である。
不自由な生活の中から、へそくり百円なりを、主人にはないしょでだす人、親のかたみのダイヤの指輪を手からはずしてだす人。
「愛は降る星の如く」これは、私が感銘を、うけた本の名であるが、ほんとうに、幼稚園づくりのために、愛は降る星の如く、私と私の仕事のために、降り注いだのだった。
このような愛情に守られて、戦争を越したのだったが、終戦になると、がらりと様相は変化した。
「市内の幼稚園は、ほとんど閉鎖していたので、幼児は市内でただ一つ、いぶきをつづけてきた、私の幼稚園に、東から西からおしよせる。ことわってもことわっても、はいり切れない。仕方がないから施設を、ふやさなければならない。一年ごとに拡がっていく施設をみると、「幼稚園は、もうかるらしい」
人々の目は、冷たくなる。固くなる。生涯をかけて、幼児教育をととのえようとし、自分の生活など、ふりかえるよゆうもない私であった。少しばかりの原稿料を手にしては、愛人にネクタイを送るような気持ちで、砂場を作り、池をしつらえ、ペンキをぬりかえる私という人間は、そろばんはじきの人たちにとって言葉の通わない異人種に過ぎなかったのだ。人々の冷たい目、固い目は、所得税不払いとして、私にはね返り、脱税者として新聞ニュースは、さわぎたてた。市や県税で、保育する義務のある幼児を、個人立幼稚園ただ一つに、まかせておきながら―一銭の助成どころか、施設のいす一つにも、税金をかけてくる―
いく日か泣いた。いく日か放心した。
いく日か、死を思った。
しかし、私は、創立当時の人々の愛情を思い、また私を信じて巣立っていった幾百かの子どもたちのほこりを、汚しては、ならないと思った。
涙を払って静かに、たち上がった。真理に対する地道な勇気を、おおいかぶさる黒雲のかなたに希望をのぞみつづけて、黙々とこの道の階段をのぼっていった。
その時から、五、六年の月日が流れた計算の不得手な私は、はっきりと建坪を出せないが、保育室八つ、遊戯室一、職員数十四名、スクールバス二台、本年十月には、鉄筋園舎、四教室を、増築した。
人々は、言う。
「りっぱな、幼稚園だ」
「園長さんは、女傑だ?」
私は、こんな言葉のもつ意味をしっている。一朝事があれば、秋の木の葉の様に、散りゆく言葉である。私はただ私であればよい。昨日よりも半歩でもすすんだ、幼児教育の階段を、黙々とふみしめればよいのである。私は昨年、自分の呼吸を伝えるために園歌を作詞した。
みどり、みどり、みどりの子ども
ぐんぐんぐんと伸びようね
ほうら光もよんでいる
よんでいる。
みどり、みどり、みどりの園に
あかるい花をひらこうね
ほうら光も とんでいる
とんでいる。
歌は、園児たちが、光を指して伸びるようにとの、私の祈りであり、願いである。
(小学館発行「幼児と保育」1961年1月号掲載)
第二代園長 石黒 園子
あじさいが咲いている園庭に、一人二人と園児が登園してくる。六月ともなれば、どの子も、めを輝かせてこどもの園に集ってくる。
あの日の朝、九時少し前だった。
職員室の窓からぼんやり外をみていた。さーっとかけよってきた四歳児のN君が、出窓の下から「園長先生と主事先生と夫婦?」と大きな声、びっくりして声のした窓の下をみると、ほんとにこのことを聞いてみたいと感じとれる真顔のN君だ。
とたんに思わずふき出し笑いがとまらなかった。数人の若い先生たちが「どうしたの?」と、かけよってくる。はっと返事をしていないことに気付き、N君は?とみれば、まだ両足をふんばってにこりともせず私の顔をじーっとみていた。
「そうよ」と、あわてて答えたところ自分の部屋へとかけて行った。
N君は、「みどりのお父さん、お母さんとよばれる人はなんだろう」と、かねがね心にあったのだろう。
たまたま登園したら、そこに私が立っている。このチャンスにと、スクールバスをおりるやいなや、帽子もカバンもつけたままですっとんで来たのだろう。
幼いこどもに主人との間柄を聞かれたのはこの仕事に入ってはじめての経験で実のところ虚をつかれた思いだった。こどもは純粋で思っていることをズバリと言う。いつも驚かされたり、笑わされたり、泣かされたり、その世界は全く未知数で今も昔も変わらず新鮮な香が、ただよっている。
そしていつも「何故?」と、疑問をもちながらこどもたちは生きている。とてつもないことを聞くこともある。想像の世界で遊べるのがこどもの本質だからなのだ。まわりの大人はうかうかしていられない。
半月程過ぎ去った今もあの瞬間がふつふつと思い出される。笑う前にすぐ「そうよ」と、言ってやるべきだったと反省もしている。あの子は「何故園長先生はあんな大きな声で笑ったのだろう」と、わからなかったかもしれない。こどもの問いに「うるさい」とか「あほなこと」など決して言ってはならない。知らないことは正直に「知らない」とか「考えて置こう」とか、こどもの心をくみとりながら語り合う。そのおおらかな愛情につつまれてこそ、こどもはすこやかに伸びてゆくのだ。
その後もN君は、明るく発言しているという担任のことばに、ホッとした。うす緑、白、そして紅をおび紫碧色となったあじさいがいちばん美しい。
今はまだうす緑のこどもたちよ、この七変化するといわれるあじさいの花のように、人生の七変化があるかもしれないが、めげずに、強くたくましく耐えながら生き抜き、いつの日か美しい紫碧色となってほしいと願っている。
六月のある日に
(機関紙「みどり」第16号 昭和49年9月3日発行 所収)
第二代園長 石黒 園子
昨年の夏、親子三人で日光方面へ旅をした。先ず東照宮へと足を運んだ。坂下門前の回廊潜門の蟇股にある彫刻、眠猫の下をくぐり抜けると、大きな木々に囲まれた立派な石段がみえた。
奧社に通じる道である。一段一段親子三人足を揃えてのぼって行った。そのうち息が切れそうになり、踊場でひと息つき、ひょっと上を見上げると立札があった。
「人の一生は重荷を負って遠き道をゆくが如し、いそぐべからず」と書いてあった。
ごもっとも―と、心の中でつぶやきながら、今登って来た石段をふりかえると、ある人は汗をふきふき、ある人はハァーハァあえぎながら、ある人はヒールの靴を手に持ち、はだしで……次から次と人が登ってくる。
この世に重荷を負って生きていない人があるだろか、誰しも何らかの荷物を背負って二度とかえらないであろう人生の道をあゆみつづけているのである。私も私なりの心の荷を負っていると考えるのだが、その重荷も幼児達との生活の中で柔らげられていることは事実である。
三十にして立ち、四十にしてまどわず、五十にて天命をしる、と言われるが私は三十代で、みどり幼稚園創立者石黒つぎ(養母)の急死で二代目をつぎ二代目は二代目の苦しみを負って四十代は心身ともに嵐の中にあったが、五十才を迎えた現在、石段の踊場でほっと一息ついた様な思いでいる。
ふりかえってみると幼児教育の道は三十三年の足跡を残している。よくぞ遠き道をきたりと思うのだが幼児教育の一筋道は天命だったのだと、しみじみと思う今日この頃である。
天命―、その遠き一筋道を支えたものは、幼な子の心だったと、知ったとき純真でけがれない眼をむけてくる子ども達への愛しさは募るばかりである。
(機関紙「みどり」第15号 昭和49年3月18日発行 所収)
第三代園長 石黒 光幸
和歌山市の大空襲で800トンの焼夷弾が投下されたのは昭和二十年七月九日夜だった。このときの体験を語りつたえるためその一部を書いてみることにした。
私は病気療養中で母と共に和歌山の家に居た。かなり広い果物の木を植えた庭があり、そこに小さな穴を掘っていた。私は病身だったし母は私の看護に疲れ果てて足腰をいためていたので大きな穴は堀れなかったが、少しの荷物を入れて尚人間一人は入れた。勿論青天井であるが蓋は作ってあった。一度空襲警報が出てすぐ解除されたので安心してねむりについたが、すぐ二度目の警報が鳴りひびく。ねむかったが予定の通り母は土蔵の中に私は穴の中に入ったが、すぐ解除になるものと思っていた。ところが近くに赤あかと火の手が上るので少々変だなと思った矢先、目の前にある枇杷(ビワ)の木の根本にごろんと大きなものが落ちて、火の片らが飛び散り付近の草をもやし始めた。油脂焼夷弾だ。私は避難すべく母を呼びにゆくと蔵の入口がすっかりこわされていたので愕然とした。しかし呼ぶと声がしたので互に励まし合いながら町角に出ると、予定していた方向は火に包まれていて、母は顔面に火傷をしてしまった。母は「私はここで死ぬからお前だけ逃げておくれ」と云ったが、自分だけ逃げるなど出来るわけがない。焼け死ぬのは熱いだろうな、死の恐怖よりも死ぬときの肉体的苦痛が恐ろしかった。しかし私自身永い闘病生活で生きてゆく元気を失いかけていたが、もう一度一日でも働くことが出来れば、どんなに楽しいだろうかと思い続けていたので死ぬのは嫌だという気持はあった。そこで反対方向に行ったが今は堆湊公園になっている湊南小学校は火に包まれていたので、それに添って坂を上ると広大な邸があり、玄関の門の所に数人が避難していたので私達もその仲間入りをした。時どき火の粉が飛んできてやもりのように門にへばりつき炎を出したが、防火用水を使って皆で消し止めた。大きな音を立てて小学校の棟がおちた。続いて邸の棟も落ちた。これで火の粉が飛んで来なくなったので喜びの歓声がかすかにあがった。夜が明けてあたりが白み始めてくると人類の活動が始まる雰囲気になってくる。救援隊を乗せた一台のトラックが来て負傷した人はないかと大声で怒鳴ったので、母を指すと「よし乗れ新和歌の旅館へゆく」と言残して走り去った。私は火のおさまりかけた小学校の校庭に降りてみると、庭の片朋に小さい焼けた木があって、泥にまみれた丸い玉が二つ付いていた。思わずちぎり取ってみるとそれは茄子(ナス)の実であった。泥を拭きとると焼き茄子の何ともいえぬ匂いが空腹を刺激したので口に入れると、とろけるようにうまかった。
避難していた所に戻ると庭の中に大きな蘇鉄(ソテツ)の木があって、その下で数人が弁当を拡げていたが「この蘇鉄の実、食べられますよ」と教えてくれたので、焼き蘇鉄の実を五、六ケ取ってポケットに入れておいた。しかし食べると渋かったので二つ食べただけで残りは捨てた。あとで聞いた話だが沢山食べた人は下痢したそうだ。足は自然と市役所前広場へと向ってゆく。途中電柱が倒れてその下に衣類も髪も焼けてすっかり小さくなってしまった男の真黒な死体があった。市役所前広場では多くの人が死んだそうだ。竜巻が起って人は宙に舞い惨死したのである。そして私達が逃げ込んだ邸の家人達は皆ここで死んだ。焼けあとに戻ってみると壕の中と衣類を入れた井戸からは盛に煙が上り、乾燥しきった焼跡に細長い息をはく怪物が居るように見えたので少し土をかぶせたが、ききめがなかったからあきらめた。三日間くすぶり続けたのである。救急袋の中のもので食事をし、其夜は焼跡にねることにした。米軍の偵察機が飛んでくるので気持悪かったが、空は不気味なほど澄みわたり虫類は皆焼け死んだのか蚊は一匹もこなかった。
翌朝母のいる旅棺へゆくことにして県庁前へ釆たが、腹がへるので今度は飢えへの恐ろしさが頭をもたげ始めた。「空腹は悪しきことなり」と何かの小説で読んだ気がする。県庁の石段にぽつんと座っていると救援隊らしい人達がトラックに乗って釆て、握り飯いらないかと叫んだので手を振ると沢山くれた。あまり沢山くれたのでその美しさに見とれていると、その塩のついたねばり気のある御飯は絹糸の束を丸めたように白く輝いて見えた。当時の配給といえば大部分大豆のしぼり滓だった。一口食べると実にうまかったが、少々くさりかけていた。だから皆にくばって廻ったのだ。
それから間もなく終戦となるが、その後もしばらく飢餓の時代が続き人は皆生きることに精いっぱいで、風もざまもなかった。今でも地球の一角に飢えにあえいでいる民族があるが、私達は食糧の有雑さに感謝しなければいけない。
(機関紙「みどり」第38号 昭和61年3月18日発行 所収)
第四代園長 山本 喜美子
子どもたちが遊ぶ庭にはいつも花が咲いて欲しい、そんな園庭造りを目指しているが、限られた僅かな花壇でも花を絶やさないことは、なかなか難かしい。特に種子蒔きや苗の移植の時は、春の入園や秋の運動会と重なり、花の方は時期を失うことが多い。
その中で毎年子どもが植えるチューリップだけは期待に応えてくれる。運動会が終ると一人一球ずつ植える。小さな芽をだして冬を越し、三月になるとつぼみで卒園生を送り、四月には四百株余りのチューリップがみごとに咲いて、新入児を迎える。それは卒園した子ども達が後輩を応援しているような思いがして、一生懸命水をやって育てた子ども達の姿が重なる。
チューリップの花は夕暮になると花びらをかたく閉じて、朝、太陽の温かさで又開く、しとしとと冷たい春雨が降った日はどの花も終日花びらを閉じて、明るい日射しを待っている。
大学生になった卒園生が、「みどり幼稚園と言えば、チューリップよ!チューリップ一杯の印象が残っています。」と答えて、嬉しくなった。
自然の語りかけは幼児の心に深く泌み込んでいく大きな力があると思う。
今年はチューリップの花が終った後に今までの花壇のイメージをぐっと変えて、ミニトマトを百二十本程子どもと植えた。七月になって、可愛い紅い実がなりはじめた。それをみつけて、先生に知らせる子もあれば、家に持って帰りたいと言う子もいる。一枝に並んでなっている青い実を触っている内にポロリと落したのだろう、そっと葉かげに並べている時もある。
或る時、枝についた赤い実をよく見ると、小さな歯形がついていて、放課後に職員で思わず笑ってしまった。きっとどんな味か確かめたくて、葉陰のトマトに顔を寄せて、そっとかんでみたのだろう。口にひろがる甘ずっぱいトマトの味と、青くさい葉っぱのにおいも一緒に心に残っているのではないかと思う。
一日の終りに赤いトマトがすっかり収穫されているところをみると、子どもたちは、草花の時よりも興味をもって楽しんでいるのだろう。
花壇で大事なのは土だ、花を良く育てる土は、手の上にのせた時温かく柔かく力がある。いくら良い苗を植えても土という環境が整っていないと育たない、それにお日様も必要な条件だけれど、何より花を想う心が大事だ。
『花をみると何をして欲しいか、花が語っているでしょう』と言われてなる程と思った。愛されているかいないか花も答えをだしている。
(機関紙「みどり」第45号 平成元年9月30日発行 所収)
第五代園長 宮本 マリ子
この夏和歌山で、近畿地区私立幼稚園教育研修会が催されました。「生きる力を育てる」という大会テーマのもとに日頃の保育実践をとおして熱心に協議されました。「生きる力」とはと考える時、私が五才児クラスを担任している時のことが思い出されます。
その活動は、”本当に乗れる船を作りたい”ということで六人グループの子どもたちが船づくりに取り組んだ時のことです。それは、自分たちの背丈よりも大きい木を使っての製作でした。子どもたちは登園すると一目散に木工遊びの場所へ行き、自分たちで描いた設計図を見ながら「懐ここするで」「僕木切るで」と、役割りを分担し、どの子も一生懸命でしたが活動は、いつもスムーズにすすんでいたわけではあ
りません.船も大分出来て釆た時、「船に乗るところがいるな」とC君、「そうや階段がいる」と意見が一致して、階段をつくることになりました.「これは長すぎる」「これはたらん」と、どんな木かいいか材料を選びちょうどいい木が見つかり釘をうちはじめました.しかし坂になって、彼らか思っている様な階段にならないことに気づき「これ一寸ちがう」「階段とちがうで」と、作りかけたのが、本物の様な階段になっていないことで、みんな考えこんでしまいました。「どうしたらええのかな」「わからんなー」「これでもええわ」「あかんこんなんとちがう」と話しあっていましたが、意見があわず子どもたちの動きは、止ってしまいました。釘で遊ぶ子、かなづちで地面をたたく子、そのうちに昼食の時間になりました。食事の後、子どもたちは、船のところで何か話しあっています。「階段できそう?」と声をかけると「今考えてるんよ」木片を坂のところへ並べていたC君「わかった。ここへつけたら階段になるで」「ほんまや」「もっと大きいのにしたらほんまみたいになるで」と、木を探しに行き枕木のような木をうちはじめました。分厚い木なので、釘をうつのに苦心しながらも、みんな生きかえったように取り組みはじめました。十日あまりかけて念願の船ができました。「できた!乗ってみよう」と登ったり、降りたりしながら「できたー」と小踊りして喜びあっています。彼らの歓喜する姿に「やったね」と心から拍手をおくりました。
この様に、本物の船をつくるという一つの目標にむかって、自分の考えや意見を出しあい協力する姿が見られますが、時には意見がくいちがったり、挫折しそうになることもあります。そうしながらも、子どもたちは「思いをめぐらす」「考える」「試す」ことをしているのです。こんな体験をのり越えた時の喜びは、大きなものです。この経験は、自信となり、次の生活への意欲につながります。子どもたちの活動から、自ら伸びようとする力が見られます。それはまさに「生きる力」の源だと思います。
(機関紙「みどり」第64号 平成10年10月1日発行 所収)
第六代園長 石黒 悦子
高く青い空、雲が茜色に染まる頃、園庭に静寂が訪れ、安堵の時を迎えます。一日を振り返りながら、いつもの景色を眺めます。
園舎正面の濃緑の山々、古い家並み、旧園舎の屋上からは海も望むことが出来ました。山と海、おいしい空気、温暖な気候。幼い子どもを育てるには絶好な環境だとつくづく思います。
20余年前となりましたが、芸大で同期だった夫との出会いが和歌山との出会いともなりました。
まだ若くて両手に抱えきれない程の夢を少しずつ実現しようと誰もが葛藤、競争していました。そんな毎日でしたが、いろいろな分野の人との出会いがとても楽しみでした。
ある日、友人が作曲科の夫を紹介してくれました。さすがに声楽一辺倒だった私も他の分野の音楽を勉強するようになりました。膨大な量ですから、朝から夕方までレコード(昔はレコードが主流でした)やCDを聴き楽譜を見たり、出来るだけ多くの演奏会を聴くために夜はチケットもぎりのアルバイトまでする始末でした。
いろいろな音楽を知るようになるきっかけを与えてくれたり、郷里の話もしてくれました。
そんな中でいちばん新鮮に思えたのは「無駄な競争をしない、人を羨まない、個性を大切に生きる」という生活信条を持っているところでした。
競争こそが大事、順位をいつも気にした生き方とはある意味正反対の考え方に驚き興味を覚えたものでした。
後に、縁あって和歌山で暮らすようになりました。自然や人の素晴らしさに触れながら、みどり幼稚園の始まりの経緯や建学の精神を知りました。「個の自由と創造性」を理念とした創始者石黒つぎ子の遺志が受け継がれ、多くの子どもたちがお互いを認めあい、遊びや生活の中から、考え発見し、豊かな感覚を育む保育がなされていました。子どもたちの表情は明るく伸び伸びとしていて、何事に対しても一生懸命でした。
20余年前、新鮮に思った生き方、和歌山と私の今につながる原点がここにあることを、とても嬉しく思っています。
みどり幼稚園の子は、62年の歴史を持つみどりの子らしく個性豊かです。どの子も皆それぞれ違う良さを持っています。
価値のない競争や結果ばかりに振り回されて生きるのはつらい事です。どんな時代になっても、本当に大切な物は何なのかが解る知恵が必要です。その基となる心がここにはあります。一人一人愛されている自信と、数多くの経験を通して身につけて行く知恵で、世界中どこででもで生きていける力強いみどりの子が育つよう努力するのが、私達の最高の喜びです。
正面玄関に建つつぎ子先生の胸像を前に、時の流れを感じると共に、変わらぬ教育の精神を想います。
第六代園長 石黒 悦子
記念式典が終わった10月、幼稚園の始まりとなった出会いの子ども「三戸頼雄さん」がお住まいの広島に出かけました。
晴天に恵まれ、コバルト色の青空に真っ白な雲。広島駅構内から表通りへ抜けると、路面電車が走っていました。三戸さんが入居していらっしゃる老人ホームへ電話すると、黄金山の中腹にあるとの事で、路面電車でなくタクシー利用をすすめられました。駅からしばらくは平らな道が続き、区画整理された町並みを過ぎると、舗装された広い山道になりました。道を登るにつれ、下に街の景色が拡がって行き、幾筋かの川が平野を分けるように豊かな水をキラキラと光らせながら、海に流れ込んで行くのが見渡せました。
ひうな荘はとても大きな老人ホームでした。入口で待っていた若い女性職員さんが案内して下さいました。三戸さんは介護を受けながらのお食事中でした。どんな方が三戸さんなのか、想像をめぐらしていると、間もなく電動車イスを運転して、端正な顔立ちの三戸さんが目の前に現れました。
体全体をイスに支えられながら満面の笑みで
「よくいらして下さいました」
と、上半身を使い咽からしぼり出すような声でおっしゃいました。
「和歌山のみどり幼稚園、70周年をむかえました。皆で作った記念の絵本です」
動きにくい手に絵本をとり、表紙から丁寧に見た後、若いつぎ子先生がマイクに向かっている写真の4ページに戻り、
「乳母車にのって行きました。和歌浦や秋葉山にもいきました」
和歌山での幼い記憶はとても鮮明でした。身体に重度の障害はあっても幼児期の三戸さんの中に、伸びる感性のきらめきをつぎ子先生は見つけられたのだと解りました。幼稚園が始まった昭和12年頃、第2次世界大戦直前の緊迫した情勢を考えると、弱者への差別や思想弾圧はひどくなるばかりだったでしょう。小児麻痺の子どもを預かり、教育活動を始めた勇気。その活動を評価し我が子を託した他の子のご両親の強さにも敬意を感じました。
その30年後、三戸さんは得意な音楽を学び作曲家として活躍なさっていました。新聞の記事から知り、みどり幼稚園創立30周年記念曲「小鳥がうたう」を作曲していただきました。年長の子どもたちの大好きな歌です。
「三戸さんがいて下さったから、みどり幼稚園は始まり、70周年を迎えられました。三戸さんのお陰です。」
お伝えすると、こぼれそうな笑顔で、
「こんなに嬉しい事はありません。生きていてよかった」
ハッハッハと声にして笑われました。
私が聞き取れない言葉は職員さんに教えていただきながら、たくさんお話ししました。
つぎ子先生の所に通うようになってから1年後にお父様が転勤になり、横浜に引っ越され、その2年後にまた転勤で、広島に住むようになったそうですが、つぎ子先生は横浜にも広島にも会いに行かれたそうです。義父母の事も聞かれましたが、赤ん坊だった主人にも会っていらしたのには驚きました。ご両親もだいぶ前に他界され、教会の方々が身元引き受けになっているご様子。被爆者手帳もお持ちだそうです。
持参したみどり幼稚園の”園歌や小鳥がうたう”のCDを何回も聞いて、時々難しい作曲家の顔になられましたが、ニコニコなさって頑張るよう励まして下さいました。
休憩中の看護師さん達が集まって来て、
「三戸さん、笑いすぎ」
と笑顔に声をかけ、記念撮影に加わって下さいました。
帰りは、4階から玄関までご自分で車イスを運転して、女性職員さんと二人でいつまでも見送って下さいました。
訪れないといけないような思いに駆られ、平和公園に向かいました、
中高生、外国人、観光バス、平和記念資料館には人がたくさんあふれていました。丹下健三の設計の資料館は地下1階地上3階の大きな建造物で、立派であればある程、伝えなければならない過去があり、苦しい気持ちになりました。
アメリカが、戦争終結の名目で、膨大な経費を使った原爆開発を正当化するために、捕虜収容所の無い広島に原爆投下した事実を知りました。長さ3メートルの原爆が爆発直後280メートル・温度5000度の火球となり、瞬間数十万気圧という強烈な爆風とによって、一瞬にして街が壊滅しました。
14万人が亡くなり、今も病気で苦しんでいる人がいるのは周知の事実です。
優位に立ったおごりが、日本人も人間だという事を忘れさせたのでしょうか。
次々並んでどこまでも続く遺品展示。深い闇でした。
外へ出るとコバルト色の青空。
木々が大きく育った美しい公園にたくさんの慰霊碑。
花が手向けられ、平和を祈る千羽鶴が毎日掲げられる。
負の遺産を忘れることなく戦後が続いていました。
強く生きる勇気を与えたつぎ子先生、平和を祈り続ける人々。希望は成長していく子どもたち。
もうすぐみどり幼稚園の卒園生は、1万人を数えるようになります。みどりの子らが光りある人生を歩めるよう、皆の希望であるよう、豊かな幼児期を贈る努力を重ねていきたいと思います。
(チューリップママの会機関紙チューリップ26号2008年3月発行 所収)