学園エッセイ(16. Apr. 2001〜)



―30. Oct.2001―

幼稚園教諭シリーズ第2弾!! 今日は現場経験8年の若い?(-.-)、ベテラン教諭のつぶやきです。

私には毎日の保育をかきたて、支えるひとつの思いがあります。

私がこの仕事を選ぼうか迷っていたとき、卒園した園舎に立ち寄ってみたことがあります。まだ、変わらない園舎や雰囲気や独特の懐かしい空気、当然いるはずのないその頃の先生がその場所にいるようで、とてもうれしかったです。
私は小さいころのことを思うと、今でも写真のように一コマ一コマ思い出します。
たわいない粘土あそび「ばーらの花、ばーらの花♪」とたくさんのお友だち、そして目の前に座っている先生に囲まれて、歌いながら油粘土のバラの花をつくっているシーン。

いつも遊んでいた「かごめかごめ」をゆったり、やさしい時間の中で、先生が後ろにいてまさに振り返ろうとしているシーン。

わかっていたけれど、けんかばかりして先生を困らせようとしていたこと。

そんな私を叱ってくれた先生の真剣な思いと優しさが、叱られても三歳の子どもながらにとてもうれしかったことを憶えています。
自分が大きくなるにつれ、小さいころの幼稚園、保育園での楽しかったこと、イヤだったこと、いろんな心境がよみがえります。

幼いながらも私がイヤだなとか“気付いてっ!”と思っていたこともあります。だから、子どもの小さな心の奥の声にどれだけ気付いてあげられるかなと毎日奮闘しています。
私は自分の楽しかったことや、うれしかったことを今の子どもたちにも少しでも伝えたい。そして同じように楽しんでほしいと思います。

もう会うこともないだろう先生にありがとうの気持ちを込めて今度は私の番という思いで・・・。

―by makko



―27. Oct.2001―

幼稚園の教職員には、自ら子育てを経験したのち、ふたたび職場にもどった人たちが何人かいます。
今日は、そんな教諭のつぶやきをお読み下さい。

私は数十年前、みどり幼稚園との出会いがありました。
新任の私は、1年間専任として、又雑務担当として先輩の先生方に幼稚園での生活のいろいろを教わりながら日々過ごしていました。その後、担任として数年勤め、みどり幼稚園の教育、みどり幼稚園職員の人間関係、いろいろなものを知りました。そして、知れば知るほど好きになり、私にとって居心地のいい場所になりました。

しかし、残念ながら3月長男を出産し退職しました。
そして、長男も就園の時期を迎えた時、お母様方と同じようにさて、どの園を選ぼうか考え、悩みました。

自宅が遠方でありみどり幼稚園を選ぶには、毎日市駅までの送迎が条件でした。歩いて5分の所にも幼稚園、保育園などありました。しかし、幼児期を過ごす環境は大切なものでありその後の生き方も大きく左右すると実感していた私にとっては、最愛の息子はやはりみどり幼稚園でした。
幼児期は根っこの教育であるといわれます。人にとって一番大切な人とのかかわり方を、幼児期よりこの園で育んだ実感が今もあります。みどりの教育は永遠に不滅です。
今、幼稚園選びを悩んでいらっしゃるお母様方、最愛のお子様はどうぞみどり幼稚園へ。

―by ピーナツ



―22. Oct.2001―

5月2日のエッセイでご紹介した《紀州うた拍子》の後日譚です。近々CD発売の予定です!?発売前にこのページでタダで聴けるよ。指揮者の沼丸さんも寄稿してくれました。読んで聴いてね!

和歌山児童合唱団のこと、沼丸さんのこと

和歌山児童合唱団指揮者、沼丸晴彦氏から新作委嘱のお話をいただいたのは、2000年5月の事でした。
沼丸氏からのお話はきわめて具体的で、「和歌山の歌を素材とした」「3〜5曲で合計15分以内の」「変奏的な動きとヴォーカリーゼを多く含む」「ア・カペラの」作品をとの事でした。さらに氏は「少年少女としての作曲よりも、同声合唱として作曲して」くれればとも言われ、ご自身と合唱団に対しても高いレヴェルを課する作曲委嘱であると感じました。

そして、合唱団の歩みをさらに進めたいと、氏はこれからの計画についても情熱的に語って下さるのでした。

私は和歌山に暮らしながら、地元の伝承文化とは隔たった作曲をしてきました。また和歌山児童合唱団と沼丸氏の華々しい活動も、それまで少し離れたところから拝見してきました。しかしここで若い音楽家たちとご一緒し、音楽において自分の故郷と向きあう機会を与えていただいたわけです。

作曲は思いの外順調に進み、9月にはすべての譜をお渡しすることができました。書くうちに曲はふくらみ、打ち合わせにはない鳴り物まで入っていましたが、団の方々が好意的に受け入れて下さったのは、誠にありがたい事でした。
11月、県文行事への合唱団特別出演の折に、まず〈子守唄〉の演奏を聴かせていただきました。和歌山児童合唱団のその歌声は、(合唱を聴くために集まったわけではない)ホール会衆の心をもひととき鎮めるような、深い陰影を持つものでした。作曲者にとってその日は、幸先のいい励ましを送られた気がしました。

そしていく度かの部分上演を経て、2001年5月の合唱団第43回定期演奏会、とうとう全曲完全版の初演が行われました。

この日この曲の上演に先立ち、沼丸氏は満場の聴衆に向かって9ヶ月にわたる曲への取り組みを熱く語り、少し厳しい口調で「どうか静かにお聴き下さい。」とおっしゃったのでした。水を打ったような空気の中で、和児童の子どもさんたちはこの難曲にひるむことなく、作曲者の意図を十二分に聴衆に伝える見事な演奏をしてくれました。
さらに同年9月、《紀州うた拍子》は今度は東京で上演される運びとなりました。

東京文化会館の『合唱の祭典/上野の森コーラスパーク』は、三善晃同館館長によって始められたユニークな合唱演奏会です。在京の個性的な諸団体のほか、今回地方から招待されたのはいずれも実力ある合唱団ばかりでした。

その第一日目、大ホールの“準トリ”で出演した和児童の演奏は、合唱関係者の注目を特に集める極めてレヴェルの高いものでした。それは、作曲者である私にとってもながく忘れられない、5月の初演を上回る感動大きい演奏でありました。
今回の仕事を振り返って、和歌山児童合唱団の実力が、全国的に(おそらく世界的にも)有数のものである事を知らされました。

私が出会ったのは音程感覚のとてもよい、民謡うたいの勘を持つ子どもたち。和歌山を出て他の地を訪れてもまったく物おじしない、開かれた意識を持つすてきな子どもたち。

また、団員保護者の方々が支える節度ある練習の雰囲気からは、沼丸氏の教育者の横顔も知らされました。いつも団にただようあの雰囲気は、育成会長である岩橋延直氏の子どもたちへの願いに通ずる、歴史あるこの合唱団の精神なのだろうと思います。
このようにして皆で共につくりあげてきた《紀州うた拍子》の上演録音を、ぜひ多くの方々に聴いていただきたく思います。

この地にかつて生きた先人たちによって彫琢されてきた「紀州のうた」を、和歌山児童合唱団の若い声によって、いま一度「私たちのうた」としてよみがえらせる。この曲がそんな営みのひとつになると願いつつ。

石黒 晶

《紀州うた拍子》の演奏に至るまでの思い


指導をはじめて10年目。学生時代よりブラームスの合唱曲に触れ,特にアカペラ作品に魅了されていました。そんな思いから,当時,アカペラの邦人作品の少なさと芸術性の低さには若気の至りではありますが悲観しておりました。
そして30歳のときに和歌山児童合唱団との出会いがありました。そして子供達の無限の可能性と素晴らしい能力に触れ,大いに合唱の可能性と追及,あわせて日本人としてまた日本人だけが表現できる合唱音楽の創造に意欲が注がれることとなりました。子供達に導かれるように。以前から友人であった作曲家・松下耕氏に日本民俗音楽の素材を使いアカペラで芸術性高い作品を創造していきました。特に和歌山に伝わる民俗音楽を素材にした作品「紀の国のこどもうた」は予想以上に成果を出しました。子供達は見る見る成長を遂げ,本物の合唱音楽に近づけたように感じました。そして数々の国際コンクールでも高い評価を得るに至りました。しかしその反面,国際的な演奏を聴く機会にも触れ,各国の持つ民俗音楽とそれ素材にした合唱曲に感動し,その素晴らしさに日本人としての拘りを持ちたい,そしてその日本民俗音楽を素材にした合唱曲で,多くの人々に感動を与えたいと強く感じました。
今回の石黒晶氏との出会いがその夢の第一歩となりました。今から1年程前から委嘱しはじめた今作品。出来上がり当初はそのレベルの高さや要求される深さには,子供の合唱団を指導している私にとっても高いハードルでした。でももしこの曲が完成させれば素晴らしい日本の合唱曲になるにちがいないとも確信しました。そして今回の東京文化会館での演奏。いい意味でいつも裏切ってくれる子供の能力はここでも健在でした。私自身もはるかにこえる演奏には聴いている人々の度肝をぬいたことでしょう。いつのまにか音楽に引きつけられ,なんか懐かしい音やリズムは,自然と心地よくなったのではと思います。今や日本でもあのハーモニーを出せるのは和歌山児童合唱団以外にないとまで思います。10年間積み重ねた能力に,石黒氏の能力が重なり,和歌山の人にしか歌えない世界に通じる作品となりました。
今までの全ての関係者に感謝するとともに,私自身が一番幸せな状態であることに満足しています。この追求は更に続き,多くの人々に感動を与える和歌山の合唱団に,世界的な日本の合唱団になれることを夢見て進みます。

和歌山児童合唱団指揮者
沼丸 晴彦



―14. Oct.2001―

本学園理事の亀節子先生が本を出された。
『意識の闇、無意識の光』(創元社)
先生の数十年にわたる思索がこめられた、内容濃い一冊である。

古今の多くの書からの引用と、そこから触発された先生の思想が記されている。
たとえば子どもの夢について、C・G・ユングの引用の後、次のような一文がある。

『すべての子供にとって、彼の人生は、すでに彼のなかに存在する。宇宙創世の謎から、魂の小さなシミのひとつまで、無意識には記銘されているのかもしれない。無意識は、それを知っていて、夢となって物語るのだ。ここに挙げたように、子供たちの夢は、煩瑣な内容におおわれがちな大人の夢に比べて、人間の本質については、もっと直接的に、雄弁に物語りうる。

しかし、やがて、意識の到来が、太古の記憶を彼方へと押しやり、子どもは大人になって、多くのことを忘れ去り、生活していかねばならなくなる。心のどこかに郷愁を抱きながらも、人間の視線は、前方を見つめることを余儀なくされていく。知識や観念、そして、兢々(きょうきょう)とした意識が、次第に無意識の多くの部分にとって変わるのだ。』〈第6章 遥かなる記憶〉

ひとは独りで生まれ、また独りぼっちで死んでいく。しかし、ほんとにそうなのか。
ポール・ゴーギャンの最晩年に、「私たちはどこからきたのか?私たちは何者なのか?私たちはどこへいくのか?」という大作がある。

ほんとうに「私たちはどこからきたのか?」
これは、ひとは生まれながらに白紙(タブラ・ラサ)の状態ではない、という考えである。
つまり、私たちの無意識の記憶のうちには(言い換えるならば、私たちそれぞれの遺伝情報のなかには)、すでに起こった多くの出会いが内包されているといえるのかもしれないし、また真に実現すべき未来も、やはり私たちのうちにすでに在るのかもしれない。
子どもは何も知らないのではなく、もうすべてを知って生まれてきているのかもしれない。

『幼年期とは、誰にとっても、めくるめく光のヴェールに包まれた闇の息苦しさをとおして感得される特別な季節である。そこでは、あらゆる方向が見定めがたい。どこからともなく吹き寄せる風、人や物を遠くから包みこんでたゆたう陽の光、昨日という時と今日という時の間の測りがたさ、そして迫りくる闇の気配。この世界に対して見開かれたばかりの幼子(おさなご)のまなざしは、数年の経験という枠を越えて、はるかな空間と時間のひろがりを、その底に宿してはいないだろうか。』〈同上〉

私たちは、そんな「幼子(おさなご)のまなざし」を受け止める感性を、まだ己のうちに残しえているだろうか。その「まなざし」を受け止め得るとき、その時、私たち大人と子どもの立場は、きっと逆転しているのだろう。
私たちは、子どもから教えられ、子どもに学んでいるのだ。

kijimnah



―21. jul.2001―

とうとう夏だ。

昨日〜今日はサマーキャンプ。
毎年、年長組お父さま方には、銭湯、カレー作り、キャンプファイヤーなどなど、大変なお力添えをいただいている。今年も、三十余名のご協力をいただくことができた。
子どもの姿・クラスの様子(2001) のページでその様子がわかると思うが、こどもたちとても楽しそう(顔に書いてました)。年長組お父さま方、ほんとにありがとうございました。

そして、今年からはさらに年中組のお父さま方にも、夜の警備をお手伝いいただくこととなった。
年中組のお父さま方、裏方どうもすみません、おかげで、多くの子どもたちを安心して園に泊まらせることができました。来年は表舞台で、またよろしくお願いします。

そしてまた地域の皆さまにも、もちろん大変お世話になった。
ご迷惑をおかけした事もあるかもしれませんが、どうかどうかご理解ください。

このように幼稚園の行事には、地域や保護者のみなさまのご協力がないと成り立たないのが、たくさんある。
保護者のみなさま、おいそがしいところほんとに申し訳ないけれど、これからもご一緒に子育てを楽しんでくださいね。

そして、園もサマーキャンプが終わって夏休み。ふだんのスケジュールから解放されて、少しゆっくり仕事と自分を見つめる時間だ。

Kijimnahも来週いっぱい仕事だが、そのあとは少しゆとりができる。
また二学期には、新鮮な自分でスタートできるようにしたい。そして教職員みながそうであってほしい。(だって自分が心から楽しくないと、子どもたちも楽しくなれないでしょ?)

というわけで、ひとまず本園ホームページも夏休みに入ります。
みなさまもどうかよい夏休みを。 m(__)m

kijimnah



―23. jun.2001―

うちには三人の子どもがいるが、もちろんみな本園卒園である。

数年前に、二人の娘にたずねたことがある。
「幼稚園でいちばん楽しかったこと何?」
二人は迷わず同じことを言った。
「んー砂場やな」
「わたしもそうやな」
で、さらにたずねた。
「砂場で何したの?何が楽しかったの?」
すると、ここでも同じ答え。
「土だんごつくり!」
そのあと二人は土だんご作りのコツ、その丸め方、乾かし方から保存(ずいぶんいろんな隠し場所があるものだと感心した)まで、まるで昨日のことのように話してくれたのだった。

実は、ちょっとショックだった。
クラスが楽しかったとか、先生が優しかったとかきかせてくれると思っていたのに、ただただ土だんご…。
それで逆に、忘れられない記憶として残っていた。


ところで、先日おもしろいテレビ番組があった。「光れ!泥だんご」というドキュメント。
京都教育大学の発達心理の先生が、土だんごの表面がピカピカつるつるのをつくる方法をいろいろ試しながら、保育園の子どもの世界を研究していくという内容だった。

この先生の顔が面白い。
あまり都会的な学究肌の顔つきではない。しかし自信満々の表情である。どこか田舎の在野学者風だ。この先生が、保育園の子どもたちと地べたにすわりこんで、土だんごをつくっている。

素晴らしいのは、やはり子どもの表情だ。
土だんごつくりに夢中な子どもに、先生が自分の大きな表面ぴかぴかの光る土だんごを(ちょっと無理やり)手渡す。でもどの子も自分のと先生のとをしばらく見比べたあと、りっぱな光る土だんごは先生に返して、やっぱり自分の土だんごを大切そうに丸め続ける。

光る土だんごにはある程度の堅さが要るらしく、実は4歳の子どもには握れないらしい。

保育園に土だんごづくり名人の子(たしか“団子大統領”)がいた。この子が二日がかりでつくった大きな土だんごが、友達とぶつかって割れてしまった。相手の子が「ごめん」と二度ほど言うと、泣いていた“大統領”は一瞬で普段の顔に戻って、別の遊びに移っていく。

先生の言葉でなかなかいいものがあった。
―幼児期のこんな遊びが先々子どもの成長にどんなプラスになるか、という風には考えないほうがいい。むしろ、幼児期のこんなひとときが、何かに夢中な“詰まった”時間であったことを、(純粋に幸せな時間があったと考えて)大事にする方がいいのではないか。―
そんな内容だったと思う。


「これ、なんの役に立つの?」
大人も子どもも、そんな問いばかりで毎日を過ごしている。
うちでもそうだ。
でもうちの子たちが、幼稚園の頃の土だんごつくりを思い出しながら、懐かしそうに話してくれた日。あのときはうちの子も、純粋にうれしそうだった。

バブル崩壊後の日本建て直しで、世の中いよいよ功利主義的傾向が強くなるだろう。
それはわかる。たるんだ精神はときどき刺激を受けたほうがよい。
しかしまったく別次元の問題として、このような「無為のよろこび」の大切さも忘れたくない。

人がなんのために生きるかという問題に、このことはつながっていくと思う。

kijimnahもいつか幼稚園で、子どもたちといっしょに土だんごをつくってみたいと思う。
みどり会のお父さま方も、いっしょに光る土だんごをつくってみませんか?

kijimnah



―30. may 2001―

世の中、取締役会、株主総会真っ盛りの季節ですよね。


今週は本学園でも、理事会・評議員会が開催される。
この季節、この種の会議は大体議題も同じであるが、本学園の理事会・評議員会は少しだけユニークである。通常議事の後、現場の教職員からの『報告』というのを、毎年会議でやるのだ。

今年は在職7年と6年の担任教諭が、“自分を見つめて”と題して5分のスピーチをする。
内容は「子どもとほんとに“遊ぶ”ということ」、そして「結婚して幼児教育現場で働き続けること」というふたつ。

これを会議の最後、全役員・評議員、さらに全常勤教職員陪席のなかでやるのだ。
それもメモ書きを見ずに、一人立って。

さすがに議事進行の責任あるkijimnahは、事前にスピーチを聞かせてもらった。

そして感動した。

まだ20代の若い女性たちが仕事に打ち込んで過ごした6年、7年。長い人生を思えば、まだまだこれからではある。しかしここまでの仕事の歩みを語ろうとする言葉の端々に、すでに彼らの実体ある生の確かさがこもってきている。

自らを語るということは、常にむづかしい。

雑談で自分の事を話すのは簡単である。
しかしほんとうに“自分を見つめて”、つまり自分を客観的に見つめたうえで、さらに真の自己について語る事は、とてもむづかしい。

多くを語ってはならない(なにしろ5分だから)。しかしこの限られた時間のなかでこそ、真の自分が浮かび上がってくる。

人に語るとき、全てを語ろうとしてはならないとつくづく思う。
他人は、自分が思っている以上に、自分のことを見抜いているものである。

自分にとって最も大切なことを、たった一つの例をあげて伝える。
ほんとに、それでじゅうぶんなのだ。

その方が、ずっと人によく伝わるのだから。

kijimnah



―21. may 2001―

園庭の樹々のみどりが、日増しに色濃くなってゆきます。

みどり幼稚園は園舎を建て替えてから、かなり植栽が増えました。

その中でもメインは、門から園舎に向かうアプローチの桜並木でしょうか。この9本の桜は日当たりのいい園庭に枝をたくさん伸ばして、子どもたちやお迎えの皆さんに心地よい緑陰をつくってくれています。

この桜並木のうち4本は前から園庭にあった桜、1本は新しく植えたもの、そして残り4本は近くの児童遊園のものを移植しました。管理の関係で処分するというので頂戴したのです。(残念ながらこのうち2本は根づかず枯れてしまったので、この春新しい若木に植え替えました。)
そして前からあった桜のうち、チューリップシャッターの前2本は、旧園舎の頃から同じこの場所に植わったままです。オープン保育室を建てるとき、ベランダがこの2本の桜と具合のいい距離になるよう、ずいぶん工夫しました。つまりここでは、建物の方を桜の位置に合わせたのです。

それは少し大げさに言うと、限られた敷地の中での園舎建替を敢行した私たちから、園庭の樹々たちへのささやかな償いでした。
工事にあたって、旧園庭に残ったほとんど全ての植栽をいったん移植したのは、やむを得ないことでした。しかしその時、人間の都合で切り詰められ掘り返される樹々たちを見て、ちょっと申し訳ない気がしたからです。

幸い、工事のあと新しい園庭に戻した樹々は、ほとんど枯れることなく根づいてくれました。
なかでも、砂場の一角を占める藤の1本は、本園がこの地に場を定めた戦後まもなくから生き続ける、一番の老木です。
また、旧園庭のあちこちにあったキンモクセイは、今は西南のフェンス内に集められて、ようやく葉を茂らせはじめました。前から西側道路沿いに列植してあったレッドロビンは、今もなかなか元気です。

さらに正門両脇には、卒園記念品として頂戴した新しいツバキが緑の門柱をかたちづくり、園舎玄関へのアプローチにはかわいいツゲが並びました。
そして園庭の中央には、いつか子どもたちが木陰をもとめてここに集まるようにと、ちょっと大きなモチノキを新しく植えました。このモチノキが枝をひろげて葉をいっぱい茂らせるようになるのは、さあいつのことでしょうか?

まだ伸び切らない枝々にもここちよい葉風がわたる、五月晴れの空です。
(なーんてね、きょうはくもってるぞー)

kijimnah



―12. may 2001―

事務のお仕事の合間に書きました。


5月は所轄官庁への統計資料提出がある。
今年も例年同様、ふうふういいながら書類を書いていて、気づいたことがある。

それは、学園役員・評議員の年齢が若返ったことだ。
本日現在の役員会・評議員会の全構成員平均年齢は49.9歳である。
このような役員会・評議員会を持つ学校法人は、本園のように比較的歴史の長い学園ではあまり多くないのではないか。

なにより、理事長・園長・教頭などの主要スタッフが40歳代以下となったのは、本園ではなんと40年ぶりの出来事だ。(ということは裏を返せばこの数十年間、みどりは老人支配の園だったという事になってしまうのだけれど…。それなりの必然性も、あったりするんだけど…。ま、それはともかく、)

幼稚園職員の方はというと、全教職員の平均年齢38歳。本務教員の平均は32歳である。そしてクラス担任教諭の平均は、想像される通り最も若く28歳。
教員全体の平均が少し高く担任のみの平均が下がるのは、若い担任教諭・学年主任をベテラン副担任・専任が支える、という構造を示している。

なかなかよいバランスだと思いませんか。
人は生活年齢だけではかれないのはもちろんだが、これも無視はできない。


どうです?スタッフの年齢構成を見ると、みどりは「今が旬」だと思いませんか?

kijimnah




―7. may 2001―

連休を、お昼寝と読書で過ごしました。


「アーサー王と聖杯の物語」(原書房)という本を読み終えた。
著者のローズマリ・サトクリフ(Rosemary Sutcliff)は、「すぐれた児童文学にあたえられるカーネギー賞を受賞し、歴史小説家としての地位を確立した」イギリスの作家である。
そして訳者はkijimnahの高校以来の親友、山本史郎氏(東大大学院教授)。

山本氏は19世紀イギリス文学、特にディケンズの研究者として長いが、近年は「赤毛のアン」をはじめ、児童文学の翻訳分野でも活躍している。

さて“アーサー王伝説”とは、イギリスの先住民族であるケルト人の伝承話である。中世ヨーロッパ世界においてこの地に活躍していたケルト人は、時代の覇者であるゲルマン民族の侵入によって征服され、敗退した。彼らのこの悲憤の情がキリスト教と結びつき、“聖杯”にまつわる夢幻的な英雄譚となり、伝えられたとされる。
サトクリフはこの伝承話を素材に、子どもにも理解できる英雄たちの物語を書いた。

大変読みやすい。とても簡潔で平明だ。
感情移入の過剰でないさわやかな物語である。シンプルな高潔さ、というのだろうか。

“理想”というものを、彼らイギリス人たちはこのように語るのだろう。

いつの時代も、大人たちが子どもに対して“理想”を語るのは難しい。子どもの目は、人間世界の矛盾と欺瞞をちゃんと見抜いているからである。しかし一方、子どもの心は常に“きれいなもの”を求めてもいる。大人の心のうちにも、失われつつある“理想”への憧れがまだ残っている。

こんなとき人は、民族が持つ伝説に託して“理想”を物語ろうとするのだろうか。

これらの物語はそして、多く悲劇性を帯びる。英雄たちが非業の末路を迎えるからだけではないだろう。物語るという営為がはじまるそもそもの動機のうちに、やり場のない悲しみの体験があるのだろうか。かつてのケルト人がそうであったように。

仏教に、“大慈大悲”という言葉がある。
大きな悲しみのうちからこそ大いなる慈しみが出ずると、私は解している。
“理想”とは少し違うが、なぜかこの言葉を思い出した。


さてさて、今日はずいぶんキザ男さんしてしまいました。

ところで、サトクリフの「アーサー王物語」シリーズはなかなか評判がよろしいようで、四月発売まもない頃、和歌山ダイエー書籍売り場の新刊コーナーにもちゃんと並んでいました。
本の帯広告には阿刀田高さんの推薦コピーが入っていましたし、昨日の新聞広告でもシリーズ三部作完成がしらされていました。
親友の仕事が確実に世に受け入れられている事を心より慶びつつ。皆さんも機会があったら是非読んでみて下さいね。

kijimnah



―2. may. 2001―

和歌山児童合唱団の練習場に出かけてきました。
昨年委嘱を受けて作曲した新作、《紀州うた拍子》の練習に立ち合ってきたのです。

和歌山児童合唱団、略称“和児童”は歴史ある大きな合唱団で、いまは小1から大学生まで220名が在籍しています。みどりの卒園生も多くいます。極めてアクティヴな活動を継続されていて、昨年はリンツで開かれた第1回合唱オリンピックにおいて、堂々金賞を得られました。海外公演も数多い合唱団です。

私の曲を歌って下さっているのは、小5から中2までの団員たち。もう半年以上も取り組んで下さり、とうとう曲のかたちが見えてきたというところです。
この合唱曲は、和歌山の伝承素材によるア・カペラ(ピアノ伴奏のない合唱だけ)の作品です。これは以前からの“和児童”の活動コンセプトなのですが、この作品ではそれにとどまらず、曲の始めから手拍子あり棒打ちあり、さらには舞台上を動くわ演技もあるわで、子どもさんたちはほんと大変です。

ところで、私が児童合唱のための作曲をさせていただいたのは、実はこれが初めてです。
私の曲はいつも演奏難度がわりと高く敬遠されがちなのですが、指揮者の沼丸晴彦さんから「それでもええから」といわれて「そうでっか」と、やっぱり今度も超中学(高校)生級のを書いてしまいました。
幼稚園の人間なのに何故だろう?私はなんでもつい話をむつかしく、ややこしくするところがあります。反省。(-_-;)

それでも子どもさんたちの熱心な練習のおかげで、たぶん「バリむつかし」かっただろう変わった感じの新曲も、いよいよ彼ら自身のものになってきたという気がします。
作曲者としては、ちょうど一年前の今ごろ勤めの合間に書き続けた合唱曲を、とうとう生の人声で聴けるという至福を、いま味わっています。

聞くところによると、子どもさんたちは定例練習日以外の個別練習にも自発的に出てきて、それぞれが各々のパートを完全にこなそうと、ほんとに一生懸命だということです。これらの事は子どもたちのひたむきさとともに、指揮者や団を支える方々のお力が大きいのは言うまでもありません。ついつい筆の進むままに難曲を書いてしまった作曲者としては、ありがたいような、また申し訳ないような気持ちがしています。
しかし、手拍子や足拍子まで入るへんてこな(よく言えばユニークな)合唱曲を、和歌山児童合唱団が演奏するという噂は、県外の一部合唱関係者の間では初演前からささやかれつつあります。

団の方々も、この作品は今回だけで終わらせず、これから東京そして海外でも歌い重ねていくとおっしゃって下さっています。これまた、まこと曲書き冥利に尽きます。しかしながら(今後再演の機会があるにせよ)、やはり新作の初演というのはたった一回の、特別のものです。

演奏会は5月13日(日)午後2時より、和歌山市民会館大ホールで行われます。
音楽のお好きな方、合唱のお好きな方は、どうかご来聴下さいますよう、お待ち申し上げる次第です。

kijimnah




―28. Apr. 2001―

今日はみどり"WHO'S WHO"です。


幼稚園にはいろんな人がいる。

ひときわ元気で、いつも笑っている。
みどリ幼稚園なのに、この人はなんでもオレNジである。
真面目を装っているが、若い頃(ごめんね)は相当イタズラだった。
その昔、職員旅行で布団下に部屋のハンガー全部を仕掛けた。何も知らない上司は横たわるなり「この旅館の布団、妙に固いね」とか、言ったか言わないか…。駆け出し先生に似合わぬ大胆な行動で皆を驚きあきれ返らせ、その名を園の歴史に刻んだツワモノだ。

でもオレNジ先生は実は優しい。
仲間に注ぐ気持ちは、あたたかい。

ちなみにパソコンはMac派である。


幼稚園にはいろんな人がいる。

この人も元気だ。
明るいキャラだが、こちらはブルーである。
おなじくMac使いだ。愛用のiBookで、園のホームページ作りをいつも助けている。
保育室では自分も楽しそう。
ピアノが上手だ。卒園式での生演奏は感動もの。

とても家族思い。また芯の強いところもある。
飲みに出かけると酒豪である。居酒屋での注文も豪快だ。

すてきな伴侶を募集中である。


幼稚園にはいろんな人がいる。

この人もMac使いだ。
週に一度ほどしか園に来ない。
来るときはたいていヨレヨレの普段着だ。
不景気な顔に愛想笑いを浮かべながら、猫背で歩いている。
仕事を始めるとまったく話はしない。
そして自分の仕事が終わると、打合わせと称して皆の邪魔をして回る。しゃべる。
かなりはた迷惑だ。

無趣味だが、健康維持のトレーニングは続いている。
しかし気が短いので、コロッと死ぬるかもしれない。それもよい。


幼稚園にはいろんな人がいる。

この人はWindows派だ。
しかし愛機をまだ使いこなせてはいない。
メールは出せるようになった。
瓜ざね顔にちなんだハンドルネームは、皆のひんしゅく(?)をかっている。

この職場で数少ない、落ち着いたキャラは貴重である。
クラスも、だからきっちりしている。
これからの時代、ここは大事な部分だ。

家庭の務めもしっかりこなしている。


幼稚園には、もっといろんな人がいる。
またいつか紹介しよう。

kijimnah




―24. Apr. 2001―

今日のエッセイはお気楽モード、日記風2つです。


Monday:

高校生の娘に、オーストラリアから電話がかかってきた。
この春休みに出かけた語学研修のホームスティ先の、Karlie嬢からである。
Karlieは娘のbuddy student だった。

私が電話をとったら、Karlieは極めて礼儀正しい。英語の発音もゆっくりで、はっきりしている(もちろん私の語学力に合わせてである。その気遣いがうれしい)
家庭環境が想像される。

娘はKarlieが大好きである。そして私も彼女が好きになった。
お礼の手紙に「心優しいお嬢さまを、娘が懐かしがっている」と書いたら、電話で本人から手紙の礼を言われた。
うちの娘のことは、Karlieの母上が「gentle な子だ」と書いて下さっていた。この言葉もうれしい。
娘はひとしきり話した(もちろんすこぶるアヤシイ英語で)あと電話を置いて、見ると眼が潤んでいる。

Karlieはまだ13歳なのだ。


Tuesday:

昨日園長が話してくれた。

3月の卒園式のあと、卒園児のお父さまからこんな話を聞いたという。
「いやぁ、卒園式で担任の先生が、そらでクラスの子ども一人ひとりの名前を呼んで下さったのには、感動しました。」
園長それを聞いて、いい気持ちで相づちを打ったところ、そのお父さまは続けて、
「あれ、もし園長先生が卒園生全員の名前を(そらで)言って下さったら、もうわたしら泣いてましたわ。」

さて、いよいよ新年度がはじまった。
幼稚園では各クラスの担任が、首にクラスの子どもたち全部の名前を記したカードをぶら下げて、(特に年少組は)園庭に散っていく子どもたちを追いかけまわしている。

ところで、担任はいったい何日くらいで、クラスの子ども全員の名前を覚えてしまうのだろう?
何日くらいだと思いますか?
2週間? 3週間? それとも1ケ月?(まさかぁ!?)

残念でした。担任は大体2〜3日でみんなの顔と名前を覚えてしまうのです。
そ、それはすごい! とお思いですか?
でもこれは、当たり前のこと。
担任は、入園式(始業式)より前、春休みからクラスの準備を始めます。
お便り帳に一人ひとりの名前を書き、靴箱のそれぞれにも名札を入れて、子どもたちがやってくるのを待っているのです。
そして保育が始まる。一人ひとりの子どもたちに声がけをしながら毎日を過ごすのだから、すぐに覚えて当然です。

続いて家庭訪問が始まる。ここで担任は、子どもとともにお母さま(お父さま)をリンクして覚えてしまう、かな?(まあ大体、たぶん)

当たり前のことですが、子どもに限らず相手の名前を覚えるのは、コミニュケーションの基本です。
かくいう私も今日、大学新一年生の担当クラス30人の顔と名前を、写真を頼りに覚えてきました、ふぅ。(まだ8割くらいだけど)

さて話はもとに戻る。
園長はこんどの卒園式で、子ども全員の名前を(もちろんそらで)呼びかけることができるだろうか?
今年度の年長児は148名である。
いまから始めれば、決して不可能ではない。
年長組の保護者様。3月の卒園式、請うご期待!!

kijimnah




―21. Apr. 2001―

今日のエッセイは大真面目ヴァージョン!?です。


昨日の大学院講義で“原光景”の話をした。

この日は、ドビュッシーのピアノ曲『前奏曲集第1巻』より「西風の見たもの」の分析であった。この曲の低音として鳴り続けるfis音について説明するうちに、脱線して“光景”の話になったのだった。(私の講義ではたいてい1講義に1回、準備もなくあらぬ方向へ脱線するが、学生も心得たもので「さあ始まった」とニヤニヤする者もいる)

〜”という日本語に対応するドイツ語は、“Ur〜”である。楽譜や文献研究の世界には「典版」という言葉が使われるが、これはUrtextの訳である。

私たちは日々移ろいゆく世界に在りながら、時に己の存在の源を探ろうとする。(だいぶ前になるが「ルーツ」という黒人の先祖=自分探しの映画があった。)
そしてこの“〜”という文字を冠した様々な語、例えば“原光景”あるいは“原体験”という言葉にも、私たちは特別な意味をこめて使う。

これについて私に教えて下さったのは、作曲の恩師である松村禎三先生である。
「君の“原光景”は何か。」と、松村先生はおっしゃった。そして自らの原光景である、結核療養所のベッドで死と向きあい過ごした青年時代の日々について語って下さったのだった。(この世代には、青少年時代に強烈な人生体験をもつ人が多い。アニメ『火垂るの墓』の原作者である野坂昭如は『焼跡闇市派』と称して、自らの原体験を語った。またさきごろ亡くなったドイツの作曲家シュトックハウゼンも、戦争孤児として敗戦を迎えたが、「無機的なものと有機的なものの区別がなし崩しになり、生者と死者が等価であるような経験を」し、「『人間的自然』のあっけない不在の感覚」を味わったという。)

松村先生のその問いかけに、戦後生まれの私は答える言葉が見つからず、自分の“原光景”とは何だろう、と思い続けて数年。はじめて沖縄を旅した折に、とうとう自分の原光景を見た思いがしたのだった。
その体験を書いたものを再掲する。

―そんな中で、民謡の取材を兼ねて初めて訪れた沖縄は、紺青の海より空に立ちのぼる燃える大気に三線(さんしん)の音が漂う、底抜けに明るい南国の夏でした。各地をまわりながら、くりかえし「これが沖縄か」と感じ入った事を覚えています。しかし、その旅程の最後にはなお衝撃的な沖縄との出会いがありました。
石垣島よりの帰路同船した糸満の人から「南部戦跡を見ずして沖縄は語れない」と言われ、勧められるままに借用したバイクで訪れたのが、第二次大戦の激戦の地である摩文仁の丘でした。兵士のみならぬ多くの人々が悲惨な最期をむかえた壕の中に入ってみると、その静けさから今なお鎮まらぬ魂の悲しみが伝わってくるようで体が震えました。壕を出て南岸の断崖の上へ上っていくと、一変してあくまで明るい南国の空と海の青が広がっています。底無しに深い悲しみと無限に明るい風土の二律背反を見せられた時、自分がなぜこのように沖縄に惹かれるのか、初めて分かったような気がしました。
摩文仁ヶ丘よりサトウキビ畑の中を走ると道脇に某砲兵団の慰霊碑があり、何気なく止まってみると、碑の傍にはセメント袋に入れられた人骨が野晒しにされたままでした。沖縄の戦後はまだ終わっていないと痛烈に感じさせられた出来事でした。―(『私の沖縄』より)

学生たちに私のこの思い出を話したのだが、彼女たちは私より一世代若い。私が沖縄を旅した'70年代終わり頃に、この世に生まれた世代である!!(もうそんなに!いつのまに…)

若い彼女たちの“原光景”がいかなるものか、わたしには想像もできない。現代の(不況とは言いながらモノがあふれた)この世界において、己が人生を透視することは、極限状況におかれた世代よりかえって難しいと思う。
しかし話を聞く院生たちの眼差しに接していると、次代への希望を実感する。

―私が恩師より伝えられた言葉を、今度は私が次代へ伝えていく。
―彼女たちが20年経っても心に留める言葉ひとつあるを願い、語っていく。

講義で脱線しながら、いつもそんな思いを抱いている。

kijimnah



―16. Apr. 2001―

新年度からこのエッセイをはじめます。執筆は園内スタッフ持ち回りですが、すてきな投稿も歓迎です。

ではまずわたくし“kijimnah”が、パソコンとの出会いを。

わたしがはじめてパソコンを使ったのは、今から15〜6年ほど前のことでした。OKIのif800(別名ウソ八百)というまだハードディスクもないパソコンでした。某社のワープロ専用機と使い比べて迷ったすえ決めました。決め手は理系の友人の「パソコンなら何でもできる。ワープロももちろん」という一言でした。
この選択は正しく、私はそれ一つで自分にも幼稚園の経営ができる(?)ことを知りました。苦手な文書作成と会計計算を、その機械がとても正確に美しくやってくれたからね。

しかし、あの頃はまだ私のような文科(芸術)系の人間にとってはパソコンなんて縁遠いものでしたから、「文科系のパソコン」という本を読んだりしました。そこには、パソコンはすでに“コンピュータ”というより“文房具”であると書いていました。
ふーんそうだよね。if800を使うほどに私もこのことを実感しはじめていて、つぎは「文字や数字をこれほど便利に扱えるのなら、パソコンで音符もできるんじゃなかろか…」と考えはじめていました。

先の理系の友人に話すと、もうそんなプログラムソフトも市販されていて、そのソフトと新しいパソコン一式を買いにアメリカまで行こうと彼は誘うのでした。ソフトは当時日本では16万円もしましたが、現地では300〜500ドルで手に入り航空券が10万ちょっとなので、結構ソロバンに合う話なのです。
で、出かけることにしました。(このノリ…、若かったなぁ)

友人はその前年ボストンで研究員をやっていたので、再渡米の友人とともに教授のご子息の家にころがりこみました。彼はMac関係の会社を興したばかり、いわゆるベンチャービジネスの若者で、自宅の机には大きな(多分20インチくらいの)カラーディスプレィが2台のっかっていて、まずびっくりしました。着くなり音楽ソフトの話になると、彼はさっそく通信販売に電話をかけてクレジットカード番号を伝え、「数日でここに届くよ」といい、その夜には私の渡米の目的はもう果たされてしまったのでした、あらあら。
翌日MITの学生生協に行ってみると、パソコン大安売りの垂れ幕がかかっています。当時米国ではまだMacとIBMが対等のシェアを持っていて、値段もほぼ同じくらいなのでした。日本と比べるととにかく安い!
ボストンには2週間ほどいましたが、ちょうど湾岸戦争勃発の兆しが旅行者にも感じられる不穏な秋で、「そろそろ帰ろか」ということになりました。結局その音楽ソフトが使えるMacは製品保証の関係で国内で購入することにし、お土産に電動サンタの人形(いまでもクリスマスの頃幼稚園の受付で手を振ってるあれ)をDIYで買って帰りました。

これを書きながら、あのテンポのよいリーズナブルな生活がいま10年遅れて日本で実現しはじめていることを感じます。当時の米国生活になかったのは、インターネットくらいでしょうか?そういえばあの頃の米国も不況でした。

しばらくしてMacを手に入れ、英文マニュアルを首っ引きでいきなりひとつ作曲をしました。4ヵ月後に初演予定だった《ヘミオラの道》という長いピアノ曲で、これでこのソフトを大体使えるようになりました。私の学習はいつもこんな風で、抜き差しならない状況で身に付くタイプす。

パソコンはその後も代替わりし、今は自宅の音楽用とノートブック、そして業務用と、数台のマシンに囲まれて生活しています。
思えばもう人生の三分の一を、パソコンを使って生きてきました。文房具としてのパソコンどころか、大学では「コンピュータ音楽」なる科目も持っていて、すでにこれが飯のタネでもあります。

私のすきな小説家の高村薫さんは、日本語ワープロ購入によって作家になったと書いてありましたが、私の人生もパソコンがあるなしでは少なからず変わっていたでしょうか。

たかが文具されど文具、私にとってのパソコン…。

kijimnah